2016年9月30日

ペンシルヴァニア鉄道脱線事故広報

ニューヨークタイムズ紙1906年10月29日号に掲載された、ペンシルヴァニア鉄道脱線事故の報道記事です。

アイビー・リーが作成・配信したプレスリリースが、一字一句そのまま使用されました(画像は、New York Times Archiveから河西が購入したPDFを元に作成)。

一方、ペンシルヴァニア鉄道の事故発生とほぼ同じくして、同社の長年のライバルであるニューヨーク・セントラル鉄道で事故が発生しました。

セントラル鉄道は従来の方針に固執し、事故に関する情報非公開としました。ペンシルヴァニア鉄道が方針転換をしたことを知っていた新聞記者たちは、この対応を知って憤慨し、社説やコラムでセントラル鉄道の行動を批判する一方で、ペンシルヴァニア鉄道を賞賛したのです。

鉄道事故と広報

米ニュージャージー州のニュージャージー・トランジット(NJT)社のホーボーケン駅で、米国時間9月29日午前8時45分ごろ、列車が駅に突っ込み、地元当局によると、少なくとも1人が死亡、75人が負傷する事故が発生しました。
NJTは、事故に関する正式ステートメント(プレスリリース)を1回発表しました。事故対策を最優先していると思われますが、事故広報の観点からは不十分であり、今後の対応を見守りたいと思います。

鉄道事故の情報公開については、1906年10月28日にペンシルヴァニア州ギャップ近郊のペンシルヴァニア鉄道メイン線で発生した、鉄道列車脱線事故におけるアイビー・リーの対応が、現代パブリック・リレーションズにおける情報公開の初の事例といわれています。ペンシルヴァニア鉄道は当初、従来の習慣に基づいて事故に関するすべての情報を公開しない方針でした。

しかし、リーは事故の状況を把握すると、社長を説得して事故に関する情報非公開の社内決定を覆し、鉄道会社の費用負担でプレスを個別に事故現場に招待すると共に、彼らに情報収集ならびに写真撮影まで許可しました。

また、リーは事故に関する公式声明(ステートメント)を,事故が発生した28日から、毎日発表しました。当時は、まだプレスリリースという呼び方ではなかったのですが、プレスリリースを実用化した最初の事例といわれています。公式声明の効果は絶大で、たとえば『ニューヨーク・タイムズ』紙はリーが配信した28日付のプレスリリースを、10月29日付の紙面で一字一句そのまま掲載しています(http://www.cnn.co.jp/usa/35089797.html?tag=top;mainStory)。

2016年9月29日

ブログのご紹介

プレスリリース、記者会見、クリッピング、メディアリスト。現代では一般的な広報手段であり、広報業務に携わる人たちは当たり前のように活用しています。実は、これらはいずれも、アイビー・リーが100年以上前に、初めて広報手法として発案もしくは実用化したものばかりです。

リーは、「パブリック・リレーションズのパイオニア」または「父」と称され、20世紀を代表する広報エージェントの第一人者です。しかし、その生涯や人物像はほとんど紹介されていないのが現実です。

彼が活躍した20世紀初頭から1930年代までのアメリカは、急速な工業化による経済市場の発展や移民の大量流入と共に、新聞メディアの普及によって、大企業の経営者や連邦政府指導者を取り巻く環境は大きく変わりました。

特に、企業経営者は顧客や従業員など、一般大衆との双方向コミュニケーションの重要性を痛感し、彼らとの良好な関係を築くためにパブリック・リレーションズ(広報)という新しいマネジメント手法と、それを実践できるパブリック・リレーションズのプロフェッショナルを求めていました。リーは、『原則の宣言』に代表されるように、当時の他の広報エージェントとは一線を画した、斬新なアイディアを次々を実践し、当時の経営者から高く評価されたのです。

このブログは、リーの知られざる人物像や代表的な広報事例の紹介をはじめ、現代パブリック・リレーションズの概念形成に、彼がどのような影響を与えたか、ご紹介します。