2016年10月31日

HONZ「今週のいただきもの」

書評サイトで有名なHONZが「今週のいただきもの」(献本紹介コーナー)で、本書をご紹介くださいました。同友館の出版部の皆さま、ご対応ありがとうございました。


2016年10月30日

2万5千ドルの助言とは


「アイビー・リー」と検索すると、「2万5千ドルの助言」というキーワードが表示されます。

この「2万5千ドルの助言」とは、リーがアメリカの鉄鋼会社「ベツレヘム・スチール」の社長を務めていた、チャールズ・シュワブ(Charles Schwab)から、今日からすぐ実践できるアイディアを求められ、答えた内容です。

この金額は広報や企業経営に関する先行研究をはじめ、多くの専門書が引用しているので、正しい金額と思います。私の著書『アイビー・リー 世界初の広報PR・業務』でも、当時のリーがいかに高く評価されたかを示す事例として、この逸話と金額を記しました。

では、この助言はどのような状況のなかで生まれたのでしょうか。

第一次世界大戦中、アメリカ政府は戦時中の鉄資源の確保のために、鉄鋼会社の国有化に動きました。鉄鋼業界は政府の考えに強く反発し、ベツレヘム・スチール社をはじめ業界大手3社が、リーを雇い、国有化阻止のための国内キャンペーンを行ないました。

戦時中のアメリカでは、すべてが軍備優先となり、国内投資が冷え込んで、鉄鋼業界も厳しい経営状況だったのです。

キャンペーンを通してリーと親しくなったシュワブは、ベツレヘム・スチール社の経営や自身の業務改善のために、上記のような助言を求めたのです。リーは、多くの企業経営者との付き合いの中で、経営者こそ業務の優先順位付けと集中が、一番重要だと考えていました。

そこで、リーはシュワブに次のような助言を行ないました。

  1. 毎日、今日行なうことをすべて書き出す。
  2. それに最も重要なものから順番をつけ、その1番目から取り組む。
  3. すべて終わらなくても、良い。
  4. これを毎日繰り返す。

この助言をしばらく実践したシュワブは、その効果に驚き、リーに「あなたの助言はとても効果があった。だから、報酬をお支払したい。いくらですか」とたずねました。

これを聞いたリーは「金額はクライアントが決めるものです」と答えましたが、結局それぞれが思う金額を紙を書いて、見せ合いました。

リーの伝記『Courtier to the Crowd』(未訳)によれば、リーが記した金額は1万ドル、シュワブは2万ドルでした。それを見たシュワブは「間を取りましょう」と答えたそうですが、実際に支払われた正確な金額はわかりません。

第一次大戦終了後、シュワブはアメリカを代表する企業経営者として有名になりました。リーはベツレヘム・スチール社広報顧問をはじめ、シュワブ個人のアドバイザーも、長く務めました。


2016年10月28日

アイビー・リー物語(2)


新聞記者を辞めてフリーのジャーナリストとなったりーは、寄稿や小さな広報エージェントの仕事をして過ごしていました。そして1903年、元ブルックリン市長だったセス・ローのニューヨーク市長選挙戦の選挙対策本部、その後、1904年の大統領選挙戦では民主党全国委員会での広報の仕事を得ました。

大統領選挙戦で、一緒に仕事をした広報エージェントのジョージ・パーカーと1904年に「パーカー&リー」社を共同で設立し、亡くなる1934年まで、本格的に広報エージェントの道を歩みました。ちなみに、パーカー&リー社はわずか4年で解散しています。

1906年(1905年という説もあります)、ペンシルヴァニア無煙炭炭鉱での炭鉱者ストライキに対抗するため、炭鉱を運営する鉄道会社はパーカー&リー社と広報エージェント契約を結び、リーが企業側の広報代理人となることが発表されました。

このとき、リーが作成した『原則の宣言(Declaration of Principles)』はその発表以降、21世紀に至る現代の広報エージェントにとって、その行動規範として数多く引用されてきたものです(写真: ニューヨーク市立大学内「PR博物館に飾られている『原則の宣言』全文、筆者撮影)。

炭鉱会社の広報が成功裏に終了後、リーは1906年6月にペンシルヴァニア鉄道から広報顧問として招聘されました。彼は初めて組織の中から、企業広報に取り組むことになりました。

入社してから約4ヵ月後、1906年10月28日にペンシルヴァニア鉄道で脱線事故が発生しました。鉄道会社は当初、当時の業界の通例に基づいて、事故に関する情報は非公開との方針を決めましたが、リーが社長を説得してこの決定を覆し、鉄道会社としてはじめてプレスに事故の情報を公開し、継続的かつ迅速な対応を行いました。

また、リーは事故発生から毎日、プレスにプレスリリースを配信しました。これが、世界で初めてプレスリリースを実用化した事例といわれてます。リーが行なった鉄道事項広報は、「クライシス・マネージメント」広報のさきがけでもありました。

事件・事故広報に成功したリーは、当時のアメリカで最も著名な広報エージェントとして、メディアや大衆・世論とのコミュニケーションに問題を抱えていた企業経営者から、注目を集めるようになります。

一代でアメリカ最大の石油会社「スタンダード石油」社を築いた、ジョン・D・ロックフェラーが率いるロックフェラー家もその一人で、リーの活動に関心を抱いた当主のロックフェラー・ジュニアが、リーに助言を求めるようになったのです。


2016年10月26日

出版社の告知が公開されました


版元の同友館のWebサイトに、著書『アイビーリー 世界初の広報・PR業務』の紹介が掲載されました。発売は11月1日です。

2016年10月21日

著書「アイビー・リー 世界初の広報PR業務」出版のお知らせ


著書「アイビー・リー 世界初の広報PR業務」(同友館)の予約が始まりました(まだ画像が掲載されていませんが)。

広報PRをはじめ、企業経営に携わる方にお読みいただければ幸いです。

本書ご紹介

プレスリリース、記者会見、クリッピング、メディアリスト。現代では一般的な広報手法であり、広報に携わる私たちは当たり前のように活用しています。これらはいずれも、アイビー・リーが100年以上前に発案した、あるいは初めて広報手段として実用化したことは、あまり知られていません。

リーが活躍した20世紀初頭から1930年代までのアメリカは、急速な工業化による経済市場の発展や移民の大量流入と共に、新聞メディアなどマスメディアの普及によって、大企業の経営者や連邦政府指導者を取り巻く環境は大きく変わりました。

特に、企業経営者は顧客や従業員など、一般大衆との双方向コミュニケーションの重要性を痛感しました。彼らとの良好な関係を築くために、パブリック・リレーションズ(広報)という新しいマネジメント手法と、それを実践できる旧来型の広報エージェントではない、新しい広報のプロフェッショナルを求めていました。

時代は、まさに現代パブリック・リレーションズの夜明けであり、リーはその時代の要求に応えたのです。

本書は、主に海外文献や研究論文の調査・分析を通して明らかになった、「パブリック・リレーションズのパイオニア」アイビー・リーの全体像を紹介すると共に、現代パブリック・リレーションズの概念形成における、彼の貢献を立証しようとしたものです。

また、リーが20世紀初頭に直面していたパブリック・リレーションズの課題と、現代の広報エージェントが直面している課題の共通性に注目し、どうすればこれらの課題を克服できるか、筆者なりの答えを見出そうとしました。

筆者は修士論文を作成する過程で、偶然にもアイビー・リーの伝記の存在を知りました。伝記を読み、海外の先行研究を調査するうちに、リーが現代広報の概念や一般的に用いられている多くの広報手法を発案し、現代パブリック・リレーションズの概念形成に貢献した、真のパイオニアだったと確信するに至りました。

2015年6月には、リーに関する貴重な資料を管理している、ニューヨーク市立大学バルク・カレッジ「PR博物館」にて文献調査を行ないました。そこで、彼の講演集「Publicity」の原本や高校・大学時代のリーの写真に対面し、ますます高まったリーへの思い入れが修士論文となりました。本書はその論文を大幅に加筆・再構成したものです。 

2016年10月14日

真実を話せ: リーの助言

築地から豊洲への移転が滞っています。原因は、新たな事実というのか、嘘が次から次へと出てくることです。また、東京都が議事録を捏造していたなど、事態がいつ収束するのか、わからなくなってきました。

100年以上前のアメリカでも、大手企業は、自身の不正や事件・事故を隠蔽するのが一般的でした。新聞や雑誌が、彼らの不正を暴き、それを読んだ一般大衆の不満や怒りは、ますます大きくなるばかりでした。

しかし、当時の企業や経営者は、反論せず、沈黙するばかりでした。なぜなら、いちいち反論していたら、キリがなかったからです。

1914年、コロラド州の炭鉱ストライキで暴動が起き、従業員の家族が犠牲になった「ラドローの虐殺」事件では、炭鉱会社の筆頭株主だったジョン・ロックフェラー(シニア)に世論の批判が集中しました。

息子のロックフェラー・ジュニアは、この状況を打開するために、広報エージェントのアイビー・リーに面談を申込み、彼に解決策について助言を求めました。

リーは、ロックフェラー親子に対して、「遅かれ早かれ、嘘は暴かれる。真実を述べ、自らの見解を全部率直に公表すること」と助言したのです。ジュニアは、リーのこの助言を受け入れて、事故対応の広報スタッフとして彼を迎え入れることにした。ちなみに、シニアはリーの助言を聞いたとき、「私は、初めて率直な助言を聞いた」と感謝の言葉を述べたそうです。


2016年10月11日

初期の広報エージェントは新聞記者出身者

9世紀以降、現代パブリック・リレーションズ(PR)は、主にアメリカの政治や経済・文化を舞台に発展しました。現代PRの発展を語る上で、広報エージェント(Public Relations Agentry)という、新しい職業の人たちの存在はとても大きかったと思います。

彼らの多くは元新聞社だったのでした。それは、当時の広報エージェントの仕事は、文章を書くことだったからです。今でも、企業や団体の広報担当者は、プレスリリースをはじめ、さまざまな文章(コピー)を書くことに、多くの時間を費やしています。

当時の連邦政府や政治家は、世論や一般大衆に政策や自身の考え方、選挙公約などをわかりやすく伝え、支持を得るために、彼らを雇って公式見解やパンフレット、校演習のまとめなど、文章を書いて配布することが、とても重要だったからです。

当時の広報エージェントは、自身の職業名をパブリシスト(Publicist)と読んでいました。パブリシティとは記事掲載を意味するもので、クライアントの情報を記事掲載させるため、パブリシストたちの力量が問われていました。

アイビー・リーも、大学卒業後、ニューヨークの新聞社で4年間、新聞記者として働きました。わずか4年でしたが、プロの書き手としての経験は、その後広報エージェントとして独立するうえで、大きな資産となりました。

(写真、30歳ころのリー、筆者撮影)


2016年10月7日

アイビー・リー物語(1)

日本ではアイビー・リーの人物像は断片的にしか紹介されていません。ブログでは、唯一の伝記『Courtier to the Crowd(大衆の下僕)』(1966、未訳)から、とても興味深い彼のエピソードを紹介していきたいと思います。
第1回は、リーの生い立ちです。

(写真: プリンストン大学時代のリー。前列右端。ニューヨーク市立大学「PR博物館」で河西撮影)

アイビー・レドベター・リー(Ivy Ledbetter Lee、以下:リー)は、1865年に南北戦争が終結した12年後の1877年7月16日、父(ジェームズ・ワイドマン・リー)、母(エマ)の長男としてアメリカ南部ジョージア州シダータウン近郊で生まれました。
リーには弟二人と妹二人がおり、生家は現地で綿花プランテーションや製粉所を経営していました。しかし、実家は南北戦争によって財産の大半を失ったほか、終戦後の火災で祖父を失っています。

父ジェームズは、苦学してエモリー大学(Emory College)を卒業後、メソジスト教会の牧師となり、アトランタならびにセントルイスの教会で要職を務めました(1919年死去)。リーは、1901年にコーネリア・バートレット・ビガローと結婚して2男、1女をもうけ、1934年に脳腫瘍で57歳の生涯を終えています。

リーは高校卒業後、1884年にエモリー大学に進学し、ディベート活動に積極的に参加していました。1886年にプリンストン大学に編入し、1898年同大学を卒業しています。在学中は、大学新聞『デイリー・プリンストニアン(Daily Princetonian)』および『アルムニ・プリンストニアン(Alumni Princetonian)』の記者をしていたほか、ニューヨークやフィラデルフィアなど東部の新聞各紙にレポートを送り、アソシエイテッド・プレス(AP通信)社から特派員として採用され、主にインタビュー記事で活躍します。

1898年にプリンストン大学卒業後、リーはハーバード大学ロースクールに進学しましたが、学費が続かず最初の1学期で中退してしまいます。その後、1899年1月にニューヨークに移り、『ニューヨーク・ジャーナル』紙に入社し、警察担当として記者のキャリアを始めました。

リーはその後、『ニューヨーク・ジャーナル』紙から『ニューヨーク・タイムズ』紙を経て、1年後に『ニューヨーク・ワールド』紙に移籍しました。ここで、リーは金融担当としてウォール・ストリートの取材生活を始め、金融街に集まる大企業の経営者たちから影響を受けます。

彼は1902年に『ニューヨーク・ワールド』紙を辞め、フリーランス・ジャーナリストとして生きていく決心をしました。リーの新聞記者としてのキャリアはわずか4年でしたが、この4年間の記者生活が、彼の広報エージェントとしてのキャリアに大きな影響を与えました。

2016年10月5日

「真実を語る」ことの重要性

オープンから4日で6カ月を迎えた全国最大のバスターミナル「バスタ新宿」(東京)の開設後、緩和が期待されていた近隣の国道20号の渋滞が、平日の上りでは逆に悪化していたことが分かりました。

しかし、調査を5月に実施した国土交通省・東京国道事務所は、「渋滞が緩和した」とする結果が得られた休日分のみを公表しており、同事務所は「都合が悪かったので平日分は公表しなかった」と説明し、今月中に再検証を行う方針を示しています(産経新聞)。

アイビー・リーは、マックレーカーの暴露記事に悩んでいたジョン・ロックフェラー・シニアに対して、「大衆はいずれ知ることになる。だから、真実を語る」ように助言しました。

広報パブリック・リレーションズの基本は、オープンで透明性を持った情報公開です。国土交通省・東京国道事務所が、自身に都合の良い情報だけを公開しても、甲州街道を通るドライバーや利用者は、平日に渋滞しているのを知っています。ソーシャル・メディアを通じて、リアルタイムに「真実」は拡散するのです。

2016年10月2日

『原則の宣言』を訳してみました

リーが発表した『原則の宣言』を訳してみました。
発表されたのは1906年といわれていますが、実は1905年だったという先行研究があり、どちらが正しいのか、まだ結論はでていません。

「これは秘密の広報部門(a secret press bureau)ではない。私たちの業務はすべてオープンに行われているのである。私たちはニュースを提供するのであって、広告会社(an advertising agency)ではない。皆さんがもし、私たちの提供する情報が皆さんの広告(営業)部門(your business office)に送るべきものだと考えたら、それを使用しないでほしい。私たちが取り扱うニュースは正確である。情報の詳細はすぐに提供され、編集者はあらゆる発表内容の事実を直接検証するために、細心の注意を持って対応されるだろう。要するに、私たちは正直でオープンに、企業ならび公共機関の代表として、プレスと米国のパブリックに対して、パブリックが知りたいと思う価値があり関心を抱く問題を、迅速かつ正確に提供するものである。」(日本語訳ならびにカッコ内の英文追加は河西)

原文 "Declaration of Principles"
"This is not a secret press bureau. All our work is done in the open. We aim to supply news. This is not an advertising agency. If you think any of our matter ought properly to go to your business office, do not use it. Our matter is accurate. Further details on any subject treated will be supplied promptly, and any editor will be assisted most carefully in verifying directly any statement of fact. ... In brief, our plan is frankly, and openly, on behalf of business concerns and public institutions, to supply the press and public of the United States prompt and accurate information concerning subjects which it is of value and interest to the public to know about."

2016年10月1日

『原則の宣言』





















20世紀初頭のアメリカで活躍したアイビー・リーは、広報の専門書や日本PR協会が認定するPRプランナー試験にも「パブリック・リレーションズのパイオニア」または「父」として紹介されています。広報にかかわる方なら、彼の名前をご存知と思います。

リーといえば『原則の宣言』。わずか120ワードからなるこの文書が、リーの名声を高めることになりました。写真は、ニューヨーク市立大「PR博物館」に飾られている『原則の宣言』の全文です。原本は残念ながら、現存していません。