2016年12月13日

書評ありがとうございます

書評「広報を始めた男」をご掲載くださいました。ありがとうございます。


2016年12月10日

アイビー・リー物語(3)

リーの広報エージェントとしての実績に注目した企業家の中に、同業他社の買収を重ねて米国内の石油販売市場をほぼ独占した、スタンダード石油の実質のオーナーだった、ジョン・D・ロックフェラーとその長男のジュニアがいました。

彼らは、石油事業で得た豊富な資金を、さまざまな分野に投資していました。その中には、コロラド州最大の石炭会社への出資が含まれます。ジョン・D・ロックフェラー(以下:シニア)は、1902年に600万ドルでコロラド燃料&鉄鋼(Colorado Fuel & Iron、以下: CFI)社の40%の株式と43%の債権を取得し、同社の筆頭株主となりました。

CFIは当時コロラド州最大の炭鉱会社で、炭鉱が24ヵ所あり、州内で最も多くの従業員を抱えていました。実は、シニアが筆頭株主になる前からCFIは赤字であり、その後も赤字経営が続いたため、シニアは経営陣の刷新をはじめ、労働組合活動への規制を強化しました。

しかし、厳しい労働条件に反発した労働者と労働組合によるストライキが長期化し、経営難に陥っていました。また、ストライキ中の1914年4月に発砲事件(ラドローの悲劇)が起き、労働者の家族が亡くなるという悲劇もあり、最大株主であるロックフェラー家は、米国中から非難を受けました。

事件発生以降、シニアはCFI社の筆頭株主として激しい批判や誹謗中傷にさらされたが、彼には自身の考えを説明し、反論しようとはしなかったのです。なぜなら、彼にはそのような行動をする意思(広報マインド)がなかったからでした。シニアには多くの助言が寄せられたが、それらの多くは広告宣伝に関するものばかりでした。

広告ばかり進められて途方にくれたジュニアから相談を受けた、ジャーナリストのアーサー・ブリスベン(Arthur Brisbane)が、彼にリーを広報顧問に雇うよう推薦しました。ブリスベンは、新聞記者としてリーと『ニューヨーク・サン』、『ニューヨーク・ワールド』両紙で同僚であり、リーを良く知る人物でした。

事件発生から1ヶ月が経過した19145月、ジュニアがリーに面談を申し込み、彼はリーに「父と私は、プレスや国民についてよく理解していない。どうすれば、私たちの立場を明確に伝えることができるだろうか」と助言を求めました

それに対して、リーは問題解決のために「遅かれ早かれ、嘘は暴かれる。真実を述べ、自らの見解を全部率直に公表すること」と助言したのです。ジュニアは、リーのこの助言を受け入れて、事故対応の広報スタッフとして彼を迎え入れることにした。ちなみに、シニアはリーの助言を聞いたとき、「私は、初めて率直な助言を聞いた」と感謝の言葉を述べたといわれています

リーは19146月から7ヵ月間にわたり、ペンシルヴァニア鉄道の運賃値上げキャンペーンに取り組みながら、多忙な時間の合間をぬってコロラド炭坑争議の広報業務に取り組むことになりました。

参考: 『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務

書評が掲載されました

日本パブリックリレーションズ協会の「協会ニュース2016年12月号」に、『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』の書評が掲載されました。

2016年12月8日

論文が公開されました

東京経済大学の『コミュニケーション科学(The Journal of Communication Studies)』第44号(11月9日発行)に掲載された論文『現代アメリカにおける広報エージェントの概念形成』が、東京経済大学学術機関リポジトリで公開されました。
これは、修士論文の一部を補筆改訂したものです。

2016年12月6日

広報PR温故知新「エンバーゴ」とは何か

企業の広報PR業務に携わっている方なら、「エンバーゴ」という用語を見たことがあると思います。外資系企業では、企業買収や合併など、大きな発表のプレスリリースに「エンバーゴ」が記載されている場合があります。

エンバーゴは元々海運業界の専門用語で、政府命令や戦争等非常事態により、貨物の種類、路線、期間などを限定して、出入港禁止措置を行なうことです。これが転じて、広報PRでは指定日時まで一定の間、情報公開(記事掲載)を禁止するという意味で用いられるようになり、企業とメディア間の紳士協定となりました。

日本では、昔は「報道解禁時刻」と表示していたようですが、今は企業の広報やPR会社から、「今日の発表内容は、xx日のx時までエンバーゴでお願いします」とか、プレスリリースに「xx日x時前の公開禁止」などと記されています。

「エンバーゴ」が、広報PRで使われ始めた時期は不明ですが、1930年代のアメリカでは既に一般的だったようです。たとえば、ロックフェラー家の広報エージェントだったアイビー・リーとニューヨークのメディアとの間では、大恐慌後の1930年に建設が始まったロックフェラー・センターに関する情報開示について、その「エンバーゴ」をめぐった対立がありました。

リーの伝記『Courtier to the Crowd』には、そのときの様子が次のように書かれています。
「新聞記者たちは、ニュースの「エンバーゴ」についてリーを批判した。記者たちが、ロックフェラー・センター建設に情報入手を試みても、リーはそのすべての依頼を断っていた。ロックフェラー・センターに関する噂はニューヨーク市中に広まっていたが、ある記者によれば、すべての交渉が終了するまで、リーは彼らが知りえた情報の記事掲載を認めず、さらにロックフェラー家からの正式コメントの提供も断っていた。」

ロックフェラー・センターは1930年に建設が始まり、すべての建設が修了したのは1939年。建設現場では、一日最大7万5千人もの労働者が働く、世紀の大プロジェクトでした。1929年に起きた大恐慌で職を失った人たちや建設業界をはじめ、アメリカ国内に復活の機会を提供したロックフェラー・センターの建設は、注目を集めていました。だから、メディアの取材合戦も相当なものだったことだろろうと思います。

リーは、メディアから激しい批判を浴びながらも、ロックフェラー家を守ることに専念し、ロックフェラー・センターの広報プロジェクトも彼の戦略どおりに行われました。建物を「ロックフェラー・センター」と命名することになったのは、ロックフェラーがリーの助言を受け入れたからだといわれています。

このように、リーはメディアからクライアントを守るバッファー役を果たしていました。広報エージェントがクライアントとメディア、及びクライアントとパブリックとの間に入るという役割は、20世紀初頭のアメリカにはなかった仕組みである。リーは現代では一般的となっている、広報エージェントによるコミュニケーション・スタイルの確立に貢献したと評価されています。

企業とメディア間の紳士協定は重要です。しかし、リークやオフレコが情報源となって、新製品情報もその発売前からネット上に公開されてしまう現代では、「エンバーゴ」とは何かを、改めて考える必要があると思います。以上、広報PR用語としての「エンバーゴ」の由来について書いてみました。


広報マーケティング Advent Calendar 2016に参加しています。


参考文献

  • Ray E. Hiebert, Courtier to The Crowd; The Story of Ivy Lee and the Development of Public Relations, (Iowa State University Press, 1966 未訳)
  • ロン・チャーナウ/井上廣美訳『タイタン ロックフェラー帝国を創った男(上)(下)』(日経BP社、2000)
  • 河西仁『アイビー・リー 世界初の広報・PR』(同友館、2016)
地図: Googleマップ「ロックフェラー・センター




2016年12月1日

出版記念セミナーを開催しました

都内で出版記念セミナーを開催しました。ご参加くださった皆さま、ありがとうございました。

今回は、広報PRに携わるプロの方々が中心だったので、専門用語の説明などそれほど必要としないで、集中して話すことができました。

今後も、セミナーや研究会・勉強会を開催していきたいと考えています。

2016年11月28日

書評が掲載されました

広報学会の理事も務めている、PR会社「ビーコミ」代表の加藤恭子さんが、ご自身のプログ「きょこ コーリング」で、書評をご掲載くださいました。ありがとうございます。


2016年11月25日

広報学会Facebookで、紹介されました。

広報学会のFacebookで、拙著が紹介されました。こうしてご紹介いただけるのは、大変うれしいことです。

ちなみに、引用された記事は、東京経済大学の広報から取材を受けたものです。
卒業後、ひさしぶりに訪れた大学は、懐かしかったです。

2016年11月21日

広報エージェントの前職は新聞記者やジャーナリストが多い

アップル社が中国での広報業務を強化するために、ウォールストリート・ジャーナル紙の元コラムニストを採用しました。

Apple、WSJの女性ジャーナリストを中国の広報責任者として引き抜き

アメリカでは、エドワード・バーネイルズといった現代パブリック・リレーションズの父と称される先駆者たちが、第一次世界大戦終了後、パブリック・リレーションズに関する講義を大学で始めました。これは、PRを専門職業として認知させるの人材育成の始まりでもありました。

その後、企業や行政機関のパブリック・リレーションズに対する需要が高まったことから、大学にパブリック・リレーションズの学部や学科が開設され、大学で専攻した学生たちがPRエージェンシーや企業の広報部門で働くようになりました。

一方、新聞記者に代表されるジャーナリストから、PRエージェントに転身する事例も多く見られました。これは、企業にとって、ニュースを書くという専門知識や経験を有する新聞記者たちは、即戦力だったわけです。この傾向は、マスメディアへの露出が広報PRにとって最大の価値を示していた1980年代初めまで続きました。

しかし、1990年代のインターネットの登場によって、企業にとメディアとの関係が代わり始めたことから、広報担当=元ジャーナリストという図式は、以前より少なくなったと思います。

2016年11月20日

「出版記念セミナー」申込受付終了しました。

12月1日(木)に開催する「出版記念セミナー」の申込を終了しました。お申込・お問合せくださった皆さま、ありがとうございました。

キャンセルが出た場合は、改めてご案内します。


2016年11月14日

12月1日開催「出版記念セミナー」の補足説明です。

セミナー開催告知後、ご質問を頂戴しました。共有できる内容をまとめましたので、ご参考になれば幸いです。

◆セミナーの内容について
このセミナーは、プレスリリースの書き方や、記者やメディアとの付き合い方を紹介する、ノウハウ系ではありません。

現代広報PRの発端をご紹介し、広報の原点を考えてみようという試みです。『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』の中から、世界で初めて彼がプレスリリースを実用化した、鉄道事故広報など、事件・事故の経緯を詳しくご紹介します。

◆PRプランナー試験にも登場する、アイビー・リーとは一体誰なのか。
なぜ、アイビー・リーは「パブリック・リレーションズのパイオニア」と呼ばれるのでしょう。その理由は、現代広報PRで一般的に用いられている、数々の広報手法を初めて考案、実用化した人物だからです。

プレスリリースは、彼が1906年の鉄道事故後の情報発進手段として実用化し、以降は企業や団体のメッセージをメディアに伝える共通様式として定着しました。
また、一ヶ所に複数のメディアを集めて行なう記者会見も、リーが考案したものです。

さらに、リーが1906年(1905年説もあり)発表した『原則の宣言』は、PR会社や広報エージェントの仕事に対する、原理原則を定めたものとして、21世紀に広報業務に携わるすべての人たちの行動師範となっています。

セミナーでは、リーの生涯とその代表的な事例紹介を通して、彼が「パブリック・リレーションズのパイオニア」と称される理由を解説します。また、ツールやテクニックに頼りがちな現代広報PRにとって、リーが考えていた「広報マインド」について、参加者の皆さんとの議論を交えながら考えてまいります。

このような方にお勧めのセミナーです
●広報PRとは何か、その本質を理解したい。
●企業経営者もしくは広報・マーケティング部門の責任者として、企業広報をどのように企画実践したらよいか、悩んでいる。
●PR業界(PR会社)や広告会社で、クライアントの広報業務に携わっているが、クライアントの期待に、なかなか応えることができず、悩んでいる。
●PRプランナー資格を持っているが、この資格を自身の仕事やキャリアにどのように活用したら良いか、悩んでいる。
●自営業者として、自身のブランディングや競合との差別化に悩んでいる。

開催概要
  • 日時: 2016年12月1日(木)、15:00~17:00(受付開始: 14:45)
  • 対象者: 企業の広報部門に携わっている方、マーケティング・経営部門でコミュニケーション業務に関心ある方
  • 定員: 15名(先着順)
  • 参加費: 5,000円(税込、参加費は指定口座振込またはPayPal決済)
  • 特典: ご参加者に拙著『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』を進呈。
  • 参加お申込フォーム
  • 会場: アイコミュニケーション「セミナールーム」
    東京都千代田区神田小川町2-1 KIMURA BUILDING 5階 (地図
    都営新宿線「小川町」駅【B7】出口 徒歩1分
    東京メトロ丸ノ内線「淡路町」駅【B7】出口 徒歩1分
    東京メトロ千代田線「新御茶ノ水」駅【B7】出口 徒歩1分

2016年11月11日

「出版記念セミナー」12月1日開催のお知らせ


こんにちは。河西仁です。

『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』出版以降、皆さまからお声がけをいただき、社内勉強会・セミナーを企画実践しております。

この度、一般参加型セミナーのご希望がありましたので、下記のとおり開催することとなりました。

皆さまの、ご参加お待ちしております。



  • 日時: 2016年12月1日(木)、15:00~17:00(受付開始: 14:45)
  • 対象者: 企業の広報部門に携わっている方、マーケティング・経営部門でコミュニケーション業務に関心ある方
  • 定員: 15名(先着順)
  • 参加費: 5,000円(税込、参加費は指定口座振込またはPayPal決済)
  • 特典: ご参加者に拙著『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』を進呈。
  • 参加お申込フォーム
  • 会場: アイコミュニケーション「セミナールーム」
  • 東京都千代田区神田小川町2-1 KIMURA BUILDING 5階 (地図
    都営新宿線「小川町」駅【B7】出口 徒歩1分
    東京メトロ丸ノ内線「淡路町」駅【B7】出口 徒歩1分
    東京メトロ千代田線「新御茶ノ水」駅【B7】出口 徒歩1分
セミナーの主な内容
  1. 現代広報(パブリック・リレーションズ、PR)発展の経緯。
  2. アイビー・リーが現代PRの発展に果たした役割。
  3. リーの事例紹介1: 世界初のプレスリリース実用化は、どのように行なわれたか。
  4. りーの事例紹介2: 世界初のIMC(統合型マーケティング・コミュニケーション)は、どのように行なわれたか。
  5. 21世紀に広報業務に携わる私たちが、直面している課題の解決法を、リーの広報哲学から考える。
  6. 自由討議(Q&A)

セミナーは、一方通行型ではありません。状況に応じて参加者同士の意見交換や、Q&Aを行ないながら進めます。皆さまの、ご参加を心よりお待ちしています。


講師「河西/仁」ご紹介

長野県諏訪市出身。東京都立大学卒。東京経済大学大学院修了。日本パブリックリレーションズ協会認定PRプランナー。
日本広報学会会員。米IABC(International Association of Business Communications)会員。外資系メーカの国内広報宣伝部門マネージャを経て、広報コンサルタントとして独立。

企業広報・製品広報の支援をはじめ、PR業務に関するセミナー、企業経営者(社長/CEO)向けのトップ広報研究会を主宰しています(Webサイト)。 


セミナーについて

プレスリリース、記者会見、クリッピング、メディアリスト。現代では一般的な広報手法であり、広報に携わる私たちは当たり前のように活用しています。これらはいずれも、アイビー・リーが100年以上前に発案した、あるいは初めて広報手段として実用化したことは、あまり知られていません。

本セミナーは、「パブリック・リレーションズのパイオニア」アイビー・リーの全体像を紹介すると共に、現代パブリック・リレーションズの概念形成における彼の貢献を紹介しながら、21世紀の今、広報業務に携わる私たちが一般的に活用しているさまざまな広報手法の成立過程を振り返ります。

また、リーが20世紀初頭に直面していたパブリック・リレーションズの課題と、私たち現代の広報エージェントが直面している課題の共通性に注目し、どうすればこれらの課題を克服できるか、私(河西)なりの解決策を示しながら、参加者の皆さんと自由な討論を行ないたいと考えています。

皆さまのご参加、お待ちしております。


2016年11月8日

『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』が紹介されました

ビジネス・メール・コンサルティングの第一人者である平野友朗さまが、ご自身のメルマガ「平野友朗の思考・実践メルマガ【毎日0.1%の成長】」11月8日号でご紹介くださいました。ありがとうございました。



2016年11月7日

東京経済大学の取材を受けました

『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』は修士論文を元に書き直したのですが、先日母校の広報課の取材を受け、執筆の経緯など話してきました。

そのようすが、本日の大学Webサイトで「シニア大学院生としてコミュニケーション学研究科で研究を深めた修了生が、修士論文をもとに書籍を出版」として紹介されました。



2016年11月3日

リーの報酬は、今ならどの程度になるか

20世紀はじめの米1ドルの価値は、現代だといくらなのでしょう。

1800年以降のアメリカのインフレーションを計算し、現代の価値に変換してくれるサイト「The Inflation Calculator」が便利です。たとえば、1900年当時の1ドルは、2015年では28ドル72セントに相当します。

広報エージェントとして名声の頂点にいたアイビー・リーは1915年1月から、ジョン・D・ロックフェラー(シニア)の個人事務所と月1,000ドルの契約で、広報顧問になりました。1915年当時の1,000ドルは、2015年では2万3千644ドル10セントに相当するので、かなり高額の報酬と思われます。

しかし、リーにはもっと高額の報酬で広報顧問を依頼する企業や経営者が、彼の助言を求めて押し寄せていたといわれています。

たとえば、アメリカン・タバコ社で社長を務めていたジョージ・ワシントン・ヒルが、1920年代にリーに支払っていたほう就学が記録に残っています。

ヒルは、年間4万ドルの報酬を支払いました。その内訳はリーの会社への広報顧問料として1万ドル、残りの3万ドルはリーとの個別面談料だったといわれています。ヒルは、リーとの個人面談のために、現在の36万ドル相当の報酬を支払っていたことになります。

リーが、わずか1年でロックフェラー・シニアの個人事務所との契約を修了し、契約延長をしなかったとき、シニアが「報酬が不満なのか」とリーに尋ねたのですが、彼は報酬が不満ではないと、答えています。でも、その真偽はわかりません。

2016年10月31日

HONZ「今週のいただきもの」

書評サイトで有名なHONZが「今週のいただきもの」(献本紹介コーナー)で、本書をご紹介くださいました。同友館の出版部の皆さま、ご対応ありがとうございました。


2016年10月30日

2万5千ドルの助言とは


「アイビー・リー」と検索すると、「2万5千ドルの助言」というキーワードが表示されます。

この「2万5千ドルの助言」とは、リーがアメリカの鉄鋼会社「ベツレヘム・スチール」の社長を務めていた、チャールズ・シュワブ(Charles Schwab)から、今日からすぐ実践できるアイディアを求められ、答えた内容です。

この金額は広報や企業経営に関する先行研究をはじめ、多くの専門書が引用しているので、正しい金額と思います。私の著書『アイビー・リー 世界初の広報PR・業務』でも、当時のリーがいかに高く評価されたかを示す事例として、この逸話と金額を記しました。

では、この助言はどのような状況のなかで生まれたのでしょうか。

第一次世界大戦中、アメリカ政府は戦時中の鉄資源の確保のために、鉄鋼会社の国有化に動きました。鉄鋼業界は政府の考えに強く反発し、ベツレヘム・スチール社をはじめ業界大手3社が、リーを雇い、国有化阻止のための国内キャンペーンを行ないました。

戦時中のアメリカでは、すべてが軍備優先となり、国内投資が冷え込んで、鉄鋼業界も厳しい経営状況だったのです。

キャンペーンを通してリーと親しくなったシュワブは、ベツレヘム・スチール社の経営や自身の業務改善のために、上記のような助言を求めたのです。リーは、多くの企業経営者との付き合いの中で、経営者こそ業務の優先順位付けと集中が、一番重要だと考えていました。

そこで、リーはシュワブに次のような助言を行ないました。

  1. 毎日、今日行なうことをすべて書き出す。
  2. それに最も重要なものから順番をつけ、その1番目から取り組む。
  3. すべて終わらなくても、良い。
  4. これを毎日繰り返す。

この助言をしばらく実践したシュワブは、その効果に驚き、リーに「あなたの助言はとても効果があった。だから、報酬をお支払したい。いくらですか」とたずねました。

これを聞いたリーは「金額はクライアントが決めるものです」と答えましたが、結局それぞれが思う金額を紙を書いて、見せ合いました。

リーの伝記『Courtier to the Crowd』(未訳)によれば、リーが記した金額は1万ドル、シュワブは2万ドルでした。それを見たシュワブは「間を取りましょう」と答えたそうですが、実際に支払われた正確な金額はわかりません。

第一次大戦終了後、シュワブはアメリカを代表する企業経営者として有名になりました。リーはベツレヘム・スチール社広報顧問をはじめ、シュワブ個人のアドバイザーも、長く務めました。


2016年10月28日

アイビー・リー物語(2)


新聞記者を辞めてフリーのジャーナリストとなったりーは、寄稿や小さな広報エージェントの仕事をして過ごしていました。そして1903年、元ブルックリン市長だったセス・ローのニューヨーク市長選挙戦の選挙対策本部、その後、1904年の大統領選挙戦では民主党全国委員会での広報の仕事を得ました。

大統領選挙戦で、一緒に仕事をした広報エージェントのジョージ・パーカーと1904年に「パーカー&リー」社を共同で設立し、亡くなる1934年まで、本格的に広報エージェントの道を歩みました。ちなみに、パーカー&リー社はわずか4年で解散しています。

1906年(1905年という説もあります)、ペンシルヴァニア無煙炭炭鉱での炭鉱者ストライキに対抗するため、炭鉱を運営する鉄道会社はパーカー&リー社と広報エージェント契約を結び、リーが企業側の広報代理人となることが発表されました。

このとき、リーが作成した『原則の宣言(Declaration of Principles)』はその発表以降、21世紀に至る現代の広報エージェントにとって、その行動規範として数多く引用されてきたものです(写真: ニューヨーク市立大学内「PR博物館に飾られている『原則の宣言』全文、筆者撮影)。

炭鉱会社の広報が成功裏に終了後、リーは1906年6月にペンシルヴァニア鉄道から広報顧問として招聘されました。彼は初めて組織の中から、企業広報に取り組むことになりました。

入社してから約4ヵ月後、1906年10月28日にペンシルヴァニア鉄道で脱線事故が発生しました。鉄道会社は当初、当時の業界の通例に基づいて、事故に関する情報は非公開との方針を決めましたが、リーが社長を説得してこの決定を覆し、鉄道会社としてはじめてプレスに事故の情報を公開し、継続的かつ迅速な対応を行いました。

また、リーは事故発生から毎日、プレスにプレスリリースを配信しました。これが、世界で初めてプレスリリースを実用化した事例といわれてます。リーが行なった鉄道事項広報は、「クライシス・マネージメント」広報のさきがけでもありました。

事件・事故広報に成功したリーは、当時のアメリカで最も著名な広報エージェントとして、メディアや大衆・世論とのコミュニケーションに問題を抱えていた企業経営者から、注目を集めるようになります。

一代でアメリカ最大の石油会社「スタンダード石油」社を築いた、ジョン・D・ロックフェラーが率いるロックフェラー家もその一人で、リーの活動に関心を抱いた当主のロックフェラー・ジュニアが、リーに助言を求めるようになったのです。


2016年10月26日

出版社の告知が公開されました


版元の同友館のWebサイトに、著書『アイビーリー 世界初の広報・PR業務』の紹介が掲載されました。発売は11月1日です。

2016年10月21日

著書「アイビー・リー 世界初の広報PR業務」出版のお知らせ


著書「アイビー・リー 世界初の広報PR業務」(同友館)の予約が始まりました(まだ画像が掲載されていませんが)。

広報PRをはじめ、企業経営に携わる方にお読みいただければ幸いです。

本書ご紹介

プレスリリース、記者会見、クリッピング、メディアリスト。現代では一般的な広報手法であり、広報に携わる私たちは当たり前のように活用しています。これらはいずれも、アイビー・リーが100年以上前に発案した、あるいは初めて広報手段として実用化したことは、あまり知られていません。

リーが活躍した20世紀初頭から1930年代までのアメリカは、急速な工業化による経済市場の発展や移民の大量流入と共に、新聞メディアなどマスメディアの普及によって、大企業の経営者や連邦政府指導者を取り巻く環境は大きく変わりました。

特に、企業経営者は顧客や従業員など、一般大衆との双方向コミュニケーションの重要性を痛感しました。彼らとの良好な関係を築くために、パブリック・リレーションズ(広報)という新しいマネジメント手法と、それを実践できる旧来型の広報エージェントではない、新しい広報のプロフェッショナルを求めていました。

時代は、まさに現代パブリック・リレーションズの夜明けであり、リーはその時代の要求に応えたのです。

本書は、主に海外文献や研究論文の調査・分析を通して明らかになった、「パブリック・リレーションズのパイオニア」アイビー・リーの全体像を紹介すると共に、現代パブリック・リレーションズの概念形成における、彼の貢献を立証しようとしたものです。

また、リーが20世紀初頭に直面していたパブリック・リレーションズの課題と、現代の広報エージェントが直面している課題の共通性に注目し、どうすればこれらの課題を克服できるか、筆者なりの答えを見出そうとしました。

筆者は修士論文を作成する過程で、偶然にもアイビー・リーの伝記の存在を知りました。伝記を読み、海外の先行研究を調査するうちに、リーが現代広報の概念や一般的に用いられている多くの広報手法を発案し、現代パブリック・リレーションズの概念形成に貢献した、真のパイオニアだったと確信するに至りました。

2015年6月には、リーに関する貴重な資料を管理している、ニューヨーク市立大学バルク・カレッジ「PR博物館」にて文献調査を行ないました。そこで、彼の講演集「Publicity」の原本や高校・大学時代のリーの写真に対面し、ますます高まったリーへの思い入れが修士論文となりました。本書はその論文を大幅に加筆・再構成したものです。 

2016年10月14日

真実を話せ: リーの助言

築地から豊洲への移転が滞っています。原因は、新たな事実というのか、嘘が次から次へと出てくることです。また、東京都が議事録を捏造していたなど、事態がいつ収束するのか、わからなくなってきました。

100年以上前のアメリカでも、大手企業は、自身の不正や事件・事故を隠蔽するのが一般的でした。新聞や雑誌が、彼らの不正を暴き、それを読んだ一般大衆の不満や怒りは、ますます大きくなるばかりでした。

しかし、当時の企業や経営者は、反論せず、沈黙するばかりでした。なぜなら、いちいち反論していたら、キリがなかったからです。

1914年、コロラド州の炭鉱ストライキで暴動が起き、従業員の家族が犠牲になった「ラドローの虐殺」事件では、炭鉱会社の筆頭株主だったジョン・ロックフェラー(シニア)に世論の批判が集中しました。

息子のロックフェラー・ジュニアは、この状況を打開するために、広報エージェントのアイビー・リーに面談を申込み、彼に解決策について助言を求めました。

リーは、ロックフェラー親子に対して、「遅かれ早かれ、嘘は暴かれる。真実を述べ、自らの見解を全部率直に公表すること」と助言したのです。ジュニアは、リーのこの助言を受け入れて、事故対応の広報スタッフとして彼を迎え入れることにした。ちなみに、シニアはリーの助言を聞いたとき、「私は、初めて率直な助言を聞いた」と感謝の言葉を述べたそうです。


2016年10月11日

初期の広報エージェントは新聞記者出身者

9世紀以降、現代パブリック・リレーションズ(PR)は、主にアメリカの政治や経済・文化を舞台に発展しました。現代PRの発展を語る上で、広報エージェント(Public Relations Agentry)という、新しい職業の人たちの存在はとても大きかったと思います。

彼らの多くは元新聞社だったのでした。それは、当時の広報エージェントの仕事は、文章を書くことだったからです。今でも、企業や団体の広報担当者は、プレスリリースをはじめ、さまざまな文章(コピー)を書くことに、多くの時間を費やしています。

当時の連邦政府や政治家は、世論や一般大衆に政策や自身の考え方、選挙公約などをわかりやすく伝え、支持を得るために、彼らを雇って公式見解やパンフレット、校演習のまとめなど、文章を書いて配布することが、とても重要だったからです。

当時の広報エージェントは、自身の職業名をパブリシスト(Publicist)と読んでいました。パブリシティとは記事掲載を意味するもので、クライアントの情報を記事掲載させるため、パブリシストたちの力量が問われていました。

アイビー・リーも、大学卒業後、ニューヨークの新聞社で4年間、新聞記者として働きました。わずか4年でしたが、プロの書き手としての経験は、その後広報エージェントとして独立するうえで、大きな資産となりました。

(写真、30歳ころのリー、筆者撮影)


2016年10月7日

アイビー・リー物語(1)

日本ではアイビー・リーの人物像は断片的にしか紹介されていません。ブログでは、唯一の伝記『Courtier to the Crowd(大衆の下僕)』(1966、未訳)から、とても興味深い彼のエピソードを紹介していきたいと思います。
第1回は、リーの生い立ちです。

(写真: プリンストン大学時代のリー。前列右端。ニューヨーク市立大学「PR博物館」で河西撮影)

アイビー・レドベター・リー(Ivy Ledbetter Lee、以下:リー)は、1865年に南北戦争が終結した12年後の1877年7月16日、父(ジェームズ・ワイドマン・リー)、母(エマ)の長男としてアメリカ南部ジョージア州シダータウン近郊で生まれました。
リーには弟二人と妹二人がおり、生家は現地で綿花プランテーションや製粉所を経営していました。しかし、実家は南北戦争によって財産の大半を失ったほか、終戦後の火災で祖父を失っています。

父ジェームズは、苦学してエモリー大学(Emory College)を卒業後、メソジスト教会の牧師となり、アトランタならびにセントルイスの教会で要職を務めました(1919年死去)。リーは、1901年にコーネリア・バートレット・ビガローと結婚して2男、1女をもうけ、1934年に脳腫瘍で57歳の生涯を終えています。

リーは高校卒業後、1884年にエモリー大学に進学し、ディベート活動に積極的に参加していました。1886年にプリンストン大学に編入し、1898年同大学を卒業しています。在学中は、大学新聞『デイリー・プリンストニアン(Daily Princetonian)』および『アルムニ・プリンストニアン(Alumni Princetonian)』の記者をしていたほか、ニューヨークやフィラデルフィアなど東部の新聞各紙にレポートを送り、アソシエイテッド・プレス(AP通信)社から特派員として採用され、主にインタビュー記事で活躍します。

1898年にプリンストン大学卒業後、リーはハーバード大学ロースクールに進学しましたが、学費が続かず最初の1学期で中退してしまいます。その後、1899年1月にニューヨークに移り、『ニューヨーク・ジャーナル』紙に入社し、警察担当として記者のキャリアを始めました。

リーはその後、『ニューヨーク・ジャーナル』紙から『ニューヨーク・タイムズ』紙を経て、1年後に『ニューヨーク・ワールド』紙に移籍しました。ここで、リーは金融担当としてウォール・ストリートの取材生活を始め、金融街に集まる大企業の経営者たちから影響を受けます。

彼は1902年に『ニューヨーク・ワールド』紙を辞め、フリーランス・ジャーナリストとして生きていく決心をしました。リーの新聞記者としてのキャリアはわずか4年でしたが、この4年間の記者生活が、彼の広報エージェントとしてのキャリアに大きな影響を与えました。

2016年10月5日

「真実を語る」ことの重要性

オープンから4日で6カ月を迎えた全国最大のバスターミナル「バスタ新宿」(東京)の開設後、緩和が期待されていた近隣の国道20号の渋滞が、平日の上りでは逆に悪化していたことが分かりました。

しかし、調査を5月に実施した国土交通省・東京国道事務所は、「渋滞が緩和した」とする結果が得られた休日分のみを公表しており、同事務所は「都合が悪かったので平日分は公表しなかった」と説明し、今月中に再検証を行う方針を示しています(産経新聞)。

アイビー・リーは、マックレーカーの暴露記事に悩んでいたジョン・ロックフェラー・シニアに対して、「大衆はいずれ知ることになる。だから、真実を語る」ように助言しました。

広報パブリック・リレーションズの基本は、オープンで透明性を持った情報公開です。国土交通省・東京国道事務所が、自身に都合の良い情報だけを公開しても、甲州街道を通るドライバーや利用者は、平日に渋滞しているのを知っています。ソーシャル・メディアを通じて、リアルタイムに「真実」は拡散するのです。

2016年10月2日

『原則の宣言』を訳してみました

リーが発表した『原則の宣言』を訳してみました。
発表されたのは1906年といわれていますが、実は1905年だったという先行研究があり、どちらが正しいのか、まだ結論はでていません。

「これは秘密の広報部門(a secret press bureau)ではない。私たちの業務はすべてオープンに行われているのである。私たちはニュースを提供するのであって、広告会社(an advertising agency)ではない。皆さんがもし、私たちの提供する情報が皆さんの広告(営業)部門(your business office)に送るべきものだと考えたら、それを使用しないでほしい。私たちが取り扱うニュースは正確である。情報の詳細はすぐに提供され、編集者はあらゆる発表内容の事実を直接検証するために、細心の注意を持って対応されるだろう。要するに、私たちは正直でオープンに、企業ならび公共機関の代表として、プレスと米国のパブリックに対して、パブリックが知りたいと思う価値があり関心を抱く問題を、迅速かつ正確に提供するものである。」(日本語訳ならびにカッコ内の英文追加は河西)

原文 "Declaration of Principles"
"This is not a secret press bureau. All our work is done in the open. We aim to supply news. This is not an advertising agency. If you think any of our matter ought properly to go to your business office, do not use it. Our matter is accurate. Further details on any subject treated will be supplied promptly, and any editor will be assisted most carefully in verifying directly any statement of fact. ... In brief, our plan is frankly, and openly, on behalf of business concerns and public institutions, to supply the press and public of the United States prompt and accurate information concerning subjects which it is of value and interest to the public to know about."

2016年10月1日

『原則の宣言』





















20世紀初頭のアメリカで活躍したアイビー・リーは、広報の専門書や日本PR協会が認定するPRプランナー試験にも「パブリック・リレーションズのパイオニア」または「父」として紹介されています。広報にかかわる方なら、彼の名前をご存知と思います。

リーといえば『原則の宣言』。わずか120ワードからなるこの文書が、リーの名声を高めることになりました。写真は、ニューヨーク市立大「PR博物館」に飾られている『原則の宣言』の全文です。原本は残念ながら、現存していません。

2016年9月30日

ペンシルヴァニア鉄道脱線事故広報

ニューヨークタイムズ紙1906年10月29日号に掲載された、ペンシルヴァニア鉄道脱線事故の報道記事です。

アイビー・リーが作成・配信したプレスリリースが、一字一句そのまま使用されました(画像は、New York Times Archiveから河西が購入したPDFを元に作成)。

一方、ペンシルヴァニア鉄道の事故発生とほぼ同じくして、同社の長年のライバルであるニューヨーク・セントラル鉄道で事故が発生しました。

セントラル鉄道は従来の方針に固執し、事故に関する情報非公開としました。ペンシルヴァニア鉄道が方針転換をしたことを知っていた新聞記者たちは、この対応を知って憤慨し、社説やコラムでセントラル鉄道の行動を批判する一方で、ペンシルヴァニア鉄道を賞賛したのです。

鉄道事故と広報

米ニュージャージー州のニュージャージー・トランジット(NJT)社のホーボーケン駅で、米国時間9月29日午前8時45分ごろ、列車が駅に突っ込み、地元当局によると、少なくとも1人が死亡、75人が負傷する事故が発生しました。
NJTは、事故に関する正式ステートメント(プレスリリース)を1回発表しました。事故対策を最優先していると思われますが、事故広報の観点からは不十分であり、今後の対応を見守りたいと思います。

鉄道事故の情報公開については、1906年10月28日にペンシルヴァニア州ギャップ近郊のペンシルヴァニア鉄道メイン線で発生した、鉄道列車脱線事故におけるアイビー・リーの対応が、現代パブリック・リレーションズにおける情報公開の初の事例といわれています。ペンシルヴァニア鉄道は当初、従来の習慣に基づいて事故に関するすべての情報を公開しない方針でした。

しかし、リーは事故の状況を把握すると、社長を説得して事故に関する情報非公開の社内決定を覆し、鉄道会社の費用負担でプレスを個別に事故現場に招待すると共に、彼らに情報収集ならびに写真撮影まで許可しました。

また、リーは事故に関する公式声明(ステートメント)を,事故が発生した28日から、毎日発表しました。当時は、まだプレスリリースという呼び方ではなかったのですが、プレスリリースを実用化した最初の事例といわれています。公式声明の効果は絶大で、たとえば『ニューヨーク・タイムズ』紙はリーが配信した28日付のプレスリリースを、10月29日付の紙面で一字一句そのまま掲載しています(http://www.cnn.co.jp/usa/35089797.html?tag=top;mainStory)。

2016年9月29日

ブログのご紹介

プレスリリース、記者会見、クリッピング、メディアリスト。現代では一般的な広報手段であり、広報業務に携わる人たちは当たり前のように活用しています。実は、これらはいずれも、アイビー・リーが100年以上前に、初めて広報手法として発案もしくは実用化したものばかりです。

リーは、「パブリック・リレーションズのパイオニア」または「父」と称され、20世紀を代表する広報エージェントの第一人者です。しかし、その生涯や人物像はほとんど紹介されていないのが現実です。

彼が活躍した20世紀初頭から1930年代までのアメリカは、急速な工業化による経済市場の発展や移民の大量流入と共に、新聞メディアの普及によって、大企業の経営者や連邦政府指導者を取り巻く環境は大きく変わりました。

特に、企業経営者は顧客や従業員など、一般大衆との双方向コミュニケーションの重要性を痛感し、彼らとの良好な関係を築くためにパブリック・リレーションズ(広報)という新しいマネジメント手法と、それを実践できるパブリック・リレーションズのプロフェッショナルを求めていました。リーは、『原則の宣言』に代表されるように、当時の他の広報エージェントとは一線を画した、斬新なアイディアを次々を実践し、当時の経営者から高く評価されたのです。

このブログは、リーの知られざる人物像や代表的な広報事例の紹介をはじめ、現代パブリック・リレーションズの概念形成に、彼がどのような影響を与えたか、ご紹介します。