2016年12月10日

アイビー・リー物語(3)

リーの広報エージェントとしての実績に注目した企業家の中に、同業他社の買収を重ねて米国内の石油販売市場をほぼ独占した、スタンダード石油の実質のオーナーだった、ジョン・D・ロックフェラーとその長男のジュニアがいました。

彼らは、石油事業で得た豊富な資金を、さまざまな分野に投資していました。その中には、コロラド州最大の石炭会社への出資が含まれます。ジョン・D・ロックフェラー(以下:シニア)は、1902年に600万ドルでコロラド燃料&鉄鋼(Colorado Fuel & Iron、以下: CFI)社の40%の株式と43%の債権を取得し、同社の筆頭株主となりました。

CFIは当時コロラド州最大の炭鉱会社で、炭鉱が24ヵ所あり、州内で最も多くの従業員を抱えていました。実は、シニアが筆頭株主になる前からCFIは赤字であり、その後も赤字経営が続いたため、シニアは経営陣の刷新をはじめ、労働組合活動への規制を強化しました。

しかし、厳しい労働条件に反発した労働者と労働組合によるストライキが長期化し、経営難に陥っていました。また、ストライキ中の1914年4月に発砲事件(ラドローの悲劇)が起き、労働者の家族が亡くなるという悲劇もあり、最大株主であるロックフェラー家は、米国中から非難を受けました。

事件発生以降、シニアはCFI社の筆頭株主として激しい批判や誹謗中傷にさらされたが、彼には自身の考えを説明し、反論しようとはしなかったのです。なぜなら、彼にはそのような行動をする意思(広報マインド)がなかったからでした。シニアには多くの助言が寄せられたが、それらの多くは広告宣伝に関するものばかりでした。

広告ばかり進められて途方にくれたジュニアから相談を受けた、ジャーナリストのアーサー・ブリスベン(Arthur Brisbane)が、彼にリーを広報顧問に雇うよう推薦しました。ブリスベンは、新聞記者としてリーと『ニューヨーク・サン』、『ニューヨーク・ワールド』両紙で同僚であり、リーを良く知る人物でした。

事件発生から1ヶ月が経過した19145月、ジュニアがリーに面談を申し込み、彼はリーに「父と私は、プレスや国民についてよく理解していない。どうすれば、私たちの立場を明確に伝えることができるだろうか」と助言を求めました

それに対して、リーは問題解決のために「遅かれ早かれ、嘘は暴かれる。真実を述べ、自らの見解を全部率直に公表すること」と助言したのです。ジュニアは、リーのこの助言を受け入れて、事故対応の広報スタッフとして彼を迎え入れることにした。ちなみに、シニアはリーの助言を聞いたとき、「私は、初めて率直な助言を聞いた」と感謝の言葉を述べたといわれています

リーは19146月から7ヵ月間にわたり、ペンシルヴァニア鉄道の運賃値上げキャンペーンに取り組みながら、多忙な時間の合間をぬってコロラド炭坑争議の広報業務に取り組むことになりました。

参考: 『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務

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