2016年10月11日

初期の広報エージェントは新聞記者出身者

19世紀以降、現代パブリック・リレーションズ(PR)は、主にアメリカの政治や経済・文化を舞台に発展しました。現代PRの発展を語る上で、広報エージェント(Public Relations Agentry)という、新しい職業の人たちの存在はとても大きかったと思います。

彼らの多くは元新聞社だったのでした。それは、当時の広報エージェントの仕事は、文章を書くことだったからです。今でも、企業や団体の広報担当者は、プレスリリースをはじめ、さまざまな文章(コピー)を書くことに、多くの時間を費やしています。

当時の連邦政府や政治家は、世論や一般大衆に政策や自身の考え方、選挙公約などをわかりやすく伝え、支持を得るために、彼らを雇って公式見解やパンフレット、校演習のまとめなど、文章を書いて配布することが、とても重要だったからです。

当時の広報エージェントは、自身の職業名をパブリシスト(Publicist)と読んでいました。パブリシティとは記事掲載を意味するもので、クライアントの情報を記事掲載させるため、パブリシストたちの力量が問われていました。

アイビー・リーも、大学卒業後、ニューヨークの新聞社で4年間、新聞記者として働きました。わずか4年でしたが、プロの書き手としての経験は、その後広報エージェントとして独立するうえで、大きな資産となりました。

(写真、30歳ころのリー、筆者撮影)


2016年10月7日

アイビー・リー物語(1)

日本ではアイビー・リーの人物像は断片的にしか紹介されていません。ブログでは、唯一の伝記『Courtier to the Crowd(大衆の下僕)』(1966、未訳)から、とても興味深い彼のエピソードを紹介していきたいと思います。
第1回は、リーの生い立ちです。

(写真: プリンストン大学時代のリー。前列右端。ニューヨーク市立大学「PR博物館」で河西撮影)

アイビー・レドベター・リー(Ivy Ledbetter Lee、以下:リー)は、1865年に南北戦争が終結した12年後の1877年7月16日、父(ジェームズ・ワイドマン・リー)、母(エマ)の長男としてアメリカ南部ジョージア州シダータウン近郊で生まれました。
リーには弟二人と妹二人がおり、生家は現地で綿花プランテーションや製粉所を経営していました。しかし、実家は南北戦争によって財産の大半を失ったほか、終戦後の火災で祖父を失っています。

父ジェームズは、苦学してエモリー大学(Emory College)を卒業後、メソジスト教会の牧師となり、アトランタならびにセントルイスの教会で要職を務めました(1919年死去)。リーは、1901年にコーネリア・バートレット・ビガローと結婚して2男、1女をもうけ、1934年に脳腫瘍で57歳の生涯を終えています。

リーは高校卒業後、1884年にエモリー大学に進学し、ディベート活動に積極的に参加していました。1886年にプリンストン大学に編入し、1898年同大学を卒業しています。在学中は、大学新聞『デイリー・プリンストニアン(Daily Princetonian)』および『アルムニ・プリンストニアン(Alumni Princetonian)』の記者をしていたほか、ニューヨークやフィラデルフィアなど東部の新聞各紙にレポートを送り、アソシエイテッド・プレス(AP通信)社から特派員として採用され、主にインタビュー記事で活躍します。

1898年にプリンストン大学卒業後、リーはハーバード大学ロースクールに進学しましたが、学費が続かず最初の1学期で中退してしまいます。その後、1899年1月にニューヨークに移り、『ニューヨーク・ジャーナル』紙に入社し、警察担当として記者のキャリアを始めました。

リーはその後、『ニューヨーク・ジャーナル』紙から『ニューヨーク・タイムズ』紙を経て、1年後に『ニューヨーク・ワールド』紙に移籍しました。ここで、リーは金融担当としてウォール・ストリートの取材生活を始め、金融街に集まる大企業の経営者たちから影響を受けます。

彼は1902年に『ニューヨーク・ワールド』紙を辞め、フリーランス・ジャーナリストとして生きていく決心をしました。リーの新聞記者としてのキャリアはわずか4年でしたが、この4年間の記者生活が、彼の広報エージェントとしてのキャリアに大きな影響を与えました。

2016年10月5日

「真実を語る」ことの重要性

オープンから4日で6カ月を迎えた全国最大のバスターミナル「バスタ新宿」(東京)の開設後、緩和が期待されていた近隣の国道20号の渋滞が、平日の上りでは逆に悪化していたことが分かりました。

しかし、調査を5月に実施した国土交通省・東京国道事務所は、「渋滞が緩和した」とする結果が得られた休日分のみを公表しており、同事務所は「都合が悪かったので平日分は公表しなかった」と説明し、今月中に再検証を行う方針を示しています(産経新聞)。

アイビー・リーは、マックレーカーの暴露記事に悩んでいたジョン・ロックフェラー・シニアに対して、「大衆はいずれ知ることになる。だから、真実を語る」ように助言しました。

広報パブリック・リレーションズの基本は、オープンで透明性を持った情報公開です。国土交通省・東京国道事務所が、自身に都合の良い情報だけを公開しても、甲州街道を通るドライバーや利用者は、平日に渋滞しているのを知っています。ソーシャル・メディアを通じて、リアルタイムに「真実」は拡散するのです。

2016年10月2日

『原則の宣言』を訳してみました

リーが発表した『原則の宣言』を訳してみました。
発表されたのは1906年といわれていますが、実は1905年だったという先行研究があり、どちらが正しいのか、まだ結論はでていません。

「これは秘密の広報部門(a secret press bureau)ではない。私たちの業務はすべてオープンに行われているのである。私たちはニュースを提供するのであって、広告会社(an advertising agency)ではない。皆さんがもし、私たちの提供する情報が皆さんの広告(営業)部門(your business office)に送るべきものだと考えたら、それを使用しないでほしい。私たちが取り扱うニュースは正確である。情報の詳細はすぐに提供され、編集者はあらゆる発表内容の事実を直接検証するために、細心の注意を持って対応されるだろう。要するに、私たちは正直でオープンに、企業ならび公共機関の代表として、プレスと米国のパブリックに対して、パブリックが知りたいと思う価値があり関心を抱く問題を、迅速かつ正確に提供するものである。」(日本語訳ならびにカッコ内の英文追加は河西)

原文 "Declaration of Principles"
"This is not a secret press bureau. All our work is done in the open. We aim to supply news. This is not an advertising agency. If you think any of our matter ought properly to go to your business office, do not use it. Our matter is accurate. Further details on any subject treated will be supplied promptly, and any editor will be assisted most carefully in verifying directly any statement of fact. ... In brief, our plan is frankly, and openly, on behalf of business concerns and public institutions, to supply the press and public of the United States prompt and accurate information concerning subjects which it is of value and interest to the public to know about."

2016年10月1日

『原則の宣言』





















20世紀初頭のアメリカで活躍したアイビー・リーは、広報の専門書や日本PR協会が認定するPRプランナー試験にも「パブリック・リレーションズのパイオニア」または「父」として紹介されています。広報にかかわる方なら、彼の名前をご存知と思います。

リーといえば『原則の宣言』。わずか120ワードからなるこの文書が、リーの名声を高めることになりました。写真は、ニューヨーク市立大「PR博物館」に飾られている『原則の宣言』の全文です。原本は残念ながら、現存していません。