2016年10月7日

アイビー・リー物語(1)

日本ではアイビー・リーの人物像は断片的にしか紹介されていません。ブログでは、唯一の伝記『Courtier to the Crowd(大衆の下僕)』(1966、未訳)から、とても興味深い彼のエピソードを紹介していきたいと思います。
第1回は、リーの生い立ちです。

(写真: プリンストン大学時代のリー。前列右端。ニューヨーク市立大学「PR博物館」で河西撮影)

アイビー・レドベター・リー(Ivy Ledbetter Lee、以下:リー)は、1865年に南北戦争が終結した12年後の1877年7月16日、父(ジェームズ・ワイドマン・リー)、母(エマ)の長男としてアメリカ南部ジョージア州シダータウン近郊で生まれました。
リーには弟二人と妹二人がおり、生家は現地で綿花プランテーションや製粉所を経営していました。しかし、実家は南北戦争によって財産の大半を失ったほか、終戦後の火災で祖父を失っています。

父ジェームズは、苦学してエモリー大学(Emory College)を卒業後、メソジスト教会の牧師となり、アトランタならびにセントルイスの教会で要職を務めました(1919年死去)。リーは、1901年にコーネリア・バートレット・ビガローと結婚して2男、1女をもうけ、1934年に脳腫瘍で57歳の生涯を終えています。

リーは高校卒業後、1884年にエモリー大学に進学し、ディベート活動に積極的に参加していました。1886年にプリンストン大学に編入し、1898年同大学を卒業しています。在学中は、大学新聞『デイリー・プリンストニアン(Daily Princetonian)』および『アルムニ・プリンストニアン(Alumni Princetonian)』の記者をしていたほか、ニューヨークやフィラデルフィアなど東部の新聞各紙にレポートを送り、アソシエイテッド・プレス(AP通信)社から特派員として採用され、主にインタビュー記事で活躍します。

1898年にプリンストン大学卒業後、リーはハーバード大学ロースクールに進学しましたが、学費が続かず最初の1学期で中退してしまいます。その後、1899年1月にニューヨークに移り、『ニューヨーク・ジャーナル』紙に入社し、警察担当として記者のキャリアを始めました。

リーはその後、『ニューヨーク・ジャーナル』紙から『ニューヨーク・タイムズ』紙を経て、1年後に『ニューヨーク・ワールド』紙に移籍しました。ここで、リーは金融担当としてウォール・ストリートの取材生活を始め、金融街に集まる大企業の経営者たちから影響を受けます。

彼は1902年に『ニューヨーク・ワールド』紙を辞め、フリーランス・ジャーナリストとして生きていく決心をしました。リーの新聞記者としてのキャリアはわずか4年でしたが、この4年間の記者生活が、彼の広報エージェントとしてのキャリアに大きな影響を与えました。

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