2017年1月9日

アイビー・リー物語(4)

コロラド炭坑ストライキ広報は一定の成功をもたらしましたが、リーにとって手痛い失敗を重ねた一面もありました。たとえば、広報誌の内容にうそが書かれており、それが労働者の怒りを買うことになったほか、メディアにプレスリリースや会社側のメッセージを大量に送りつけた結果、彼らの支持を失いかけたことがありました。

しかし、リーにとって最も成功したと言えるのは、ロックフェラー家のパブリック・リレーションズに対する考え方を、変えることができた点です。シニアは、ジュニアに当主の座を渡した後もパブリックやプレスに対して沈黙を続け、人目を避ける生活を続けていました。しかし、ジュニアが生きる1900年代は大富豪家の当主に、パブリックの前に姿を現し、自ら意見を述べることを要求しました。だから、ジュニアは「真実を話せ」というリーの助言の意味を理解し、よりオープンな姿勢で世論の前に出て、彼らに誠意を持って接し、自らの言葉で語りかけたのです「ラドローの虐殺」事件後、ジュニアの現地訪問が実現したのは、リーの成果でもありました。

リーは広報誌やポスターを作成し、パブリシティを通して労使関係の改善に一定の貢献をしたことは間違いありません。しかし、前述したように、広報誌の掲載内容に間違いが多く、組合やプレスからの反発を招いたのは、これは彼のキャリアにおける初めての大きな失敗だった。これは、『原則の宣言』に書かれた内容とほど遠いものでした。そのため、彼には多くの批判が集まったのです。

たとえば、労働争議を検証する連邦議会の公聴会に、ジュニア側の参考人として出席したリーの発言が、新聞で報道されると、詩人カール・サンドバーグ(Carl Sandburg)から「雇われたうそつき」と批判され、アプトン・シンクレアには「毒薬アイビー(Poison Ivy)」というニックネームをつけられるほどでした。このニックネームは人々の記憶に長く残り、リーは「毒薬」と呼ばれることに晩年まで悩んだといわれています。

この事例でのリーは、今までの成功から比べると拙さを感じざるを得ません。しかし、リーにとってコロラド炭坑ストライキの広報は、ペンシルヴァニア鉄道の脱線事故広報のときとは状況が異なっていました。なぜなら、コロラド炭坑の案件を引き受けた時、彼は鉄道運賃値上げキャンペーンに取り組んでいた時期であり、しかもストライキが発生して半年以上、ラドローの虐殺事件から2ヵ月後でした。

また、プレスやパブリックから見ると、リーは企業=ロックフェラー家にかなり近い立場の人物だと見られていました。リーは、広報エージェントとは「企業と世論の間の通訳者であり、両者間に双方向のコミュニケーションを作るのが仕事」だと語っていましたが、彼がコロラド炭坑ストライキで行った広報活動はそのことばと矛盾しています。

一方、「コロラド争議は、ロックフェラー家にとって、かつてない最も重要なでき事」であり、これを乗り越えたジュニアは、ストライキ収拾においてリーが実践した広報コンサルティングに感謝を述べています。また、リーは、ロックフェラー家と仕事をしたという事実に加えて、企業経営者たちから、その仕事ぶりに対する賞賛を得ました。その結果、リーは民間企業や業界団体から広報業務を数多く引き受け、またロックフェラー家専属広報エージェントになり、1920年代にかけて、アメリカで最も成功した広報エージェントとなったのです。

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