2016年10月28日

アイビー・リー物語(2)


新聞記者を辞めてフリーのジャーナリストとなったりーは、寄稿や小さな広報エージェントの仕事をして過ごしていました。そして1903年、元ブルックリン市長だったセス・ローのニューヨーク市長選挙戦の選挙対策本部、その後、1904年の大統領選挙戦では民主党全国委員会での広報の仕事を得ました。

大統領選挙戦で、一緒に仕事をした広報エージェントのジョージ・パーカーと1904年に「パーカー&リー」社を共同で設立し、亡くなる1934年まで、本格的に広報エージェントの道を歩みました。ちなみに、パーカー&リー社はわずか4年で解散しています。

1906年(1905年という説もあります)、ペンシルヴァニア無煙炭炭鉱での炭鉱者ストライキに対抗するため、炭鉱を運営する鉄道会社はパーカー&リー社と広報エージェント契約を結び、リーが企業側の広報代理人となることが発表されました。

このとき、リーが作成した『原則の宣言(Declaration of Principles)』はその発表以降、21世紀に至る現代の広報エージェントにとって、その行動規範として数多く引用されてきたものです(写真: ニューヨーク市立大学内「PR博物館に飾られている『原則の宣言』全文、筆者撮影)。

炭鉱会社の広報が成功裏に終了後、リーは1906年6月にペンシルヴァニア鉄道から広報顧問として招聘されました。彼は初めて組織の中から、企業広報に取り組むことになりました。

入社してから約4ヵ月後、1906年10月28日にペンシルヴァニア鉄道で脱線事故が発生しました。鉄道会社は当初、当時の業界の通例に基づいて、事故に関する情報は非公開との方針を決めましたが、リーが社長を説得してこの決定を覆し、鉄道会社としてはじめてプレスに事故の情報を公開し、継続的かつ迅速な対応を行いました。

また、リーは事故発生から毎日、プレスにプレスリリースを配信しました。これが、世界で初めてプレスリリースを実用化した事例といわれてます。リーが行なった鉄道事項広報は、「クライシス・マネージメント」広報のさきがけでもありました。

事件・事故広報に成功したリーは、当時のアメリカで最も著名な広報エージェントとして、メディアや大衆・世論とのコミュニケーションに問題を抱えていた企業経営者から、注目を集めるようになります。

一代でアメリカ最大の石油会社「スタンダード石油」社を築いた、ジョン・D・ロックフェラーが率いるロックフェラー家もその一人で、リーの活動に関心を抱いた当主のロックフェラー・ジュニアが、リーに助言を求めるようになったのです。


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