2017年11月20日

「第12回日本広報学会賞 教育・実践貢献賞」を受賞しました

11月18日、19日に開催された日本広報学会「第23回研究発表全国大会」(会場: 龍谷大学)にて、拙著『アイビー・リー 世界初の広報PR業務』が、「第12回日本広報学会賞 教育・実践貢献賞」を受賞しました。審査委員会の皆さまをはじめ、多くの皆さまのご支援に感謝申し上げます。
教育・実践貢献賞(広報学会員の著書)は、初学者・学生のこの学問分野への興味・関心を高めるすぐれた入門書、あるいは実務の分野に貢献する著書を対象とします。
日本広報学会賞は、同学会創立10周年記念事業の一環として、2006年1月に制定されたものです。

2017年8月27日

朝日新聞8月26日夕刊に掲載されました

昨年12月の取材が、今日の朝日新聞夕刊1面に掲載されました。


読者登録が必要ですが、記事全文はasahi.comでお読みいただけます。

2017年7月1日

Ivy Leeの伝記が復刊


Ivy Leeの伝記"Courtier to the Crowd"が、1966年の出版から50年経過し、今年6月にPR Museum Pressから「50th Anniversary Edition(第2版)」として復刊されました。

第2版の前書きによれば、本書は極左翼コミュニティのWebサイト「最も有害で危険な書籍50」で、37位にランキングされていたのだそうで、著者は絶版後の復刊オファーを断ってきたのだそうです。

著者いわく「中身は前と同じ」だが、中綴じの写真が旧版より鮮明になったり、切り取られていた余白まで写っています。また、Leeが1929年に来日した時に、岩崎弥太郎と一緒に撮った写真が削除されていますが、理由は何だったのでしょう。気になります。

本書は修論作成のきっかけとなったもので、初版本が痛まないように慎重に読んだことを思い出しながら、もう一度読もうと思っています。

2017年3月23日

エメリタス賞金賞を受賞しました

『アイビー・リー 世界初の広報・PR』が、東京経済大学コミュニケーション学部のエメリタス賞金賞を受賞し、賞状が届きました。
この賞は、同学部の名誉教授の皆さまで構成された審議委員会が、修了後1年以内の院生の発表論文や著作を表彰するもの(だったと記憶)です。

2017年1月25日

著書が紹介されました。

経団連社内広報センターの『コミュニケーション シード』1月号に、知り合いの方がコラムで『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』をご紹介くださいました。ありがとうございました。

2017年1月22日

PTバーナムゆかりの米サーカス団が廃業を発表

アメリカの著名なサーカス団「リングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカス(Ringling Bros. and Barnum & Bailey Circus) が、2017年5月の公演を最後に、廃業すると発表しました。

親会社のフェルド・エンターテイメントによると、「経費の増大やチケット販売の落ち込みが響いて経営状態が悪化し、ゾウの曲芸を中止したことが追い打ちをかけた」(CNN)とのことで、5月までに米東部を中心に行なう公演を最後にその歴史にマクを閉じることになりました。

「ゾウのダンスは同サーカス団の長年の目玉だったが、動物保護団体からの批判が強まったことを受けて中止に追い込まれていた」(CNN)とのことです。日本でも、水族館のイルカショーが中止になるなど、動物によるエンタテインメントは厳しい状況です。

サーカス団の名称に「バーナム」とありますが、これは19世紀に活躍した興行師で、このサーカス団の元となる団体の創設者フィニアス・T・バーナム(Phineas Taylor Barnum)の名前です。

バーナムは、専用列車での巡業形式を初めて導入したといわれ、また興行先の地元紙に予め開催告知情報を送り、興行の前宣伝として記事が掲載されるよう、広報エージェントを活用していました。

彼の依頼を受けた広報エージェントたちは、記者に無料招待券を渡して記事掲載を働きかけました。掲載された記事は、「象を緑色に塗ってナウマン像の生き残りがやってくる」といった、興味本位な宣伝記事でした。

19世紀後半になると、全米各地に多くの新聞社が設立され、新聞はパブリックに情報を伝える重要なマス・メディアとなっていきます。バーナムは新聞によるパブリシティの効果を理解し、サーカス巡業の行く先々に先手を打つ、優れた広報・宣伝者でもありました。

参考:
CNN.co.jp「米有名サーカス団、経営難で廃業へ ゾウの曲芸中止響く」
『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』



2017年1月16日

広報エージェントの肩書き

19世紀に活躍していた、リー以前の広報エージェントは自身の肩書きをプレス・エージェントリー(Press agentry)あるいはパブリシスト(Publicist)と名乗っていました。

当時の彼らの最大の仕事は、クライアントの記事を新聞に掲載させることでした。パブリシティは記事掲載と同意語として用いられ、記事掲載を実現するプロの代理人だから「パブリシスト」と称していたのです。

リーは自身の役職や職業名を何度も変えています。たとえば、広報エージェントとして独立した当初(1903年ごろ)は、他のエージェントと同じく「パブリシスト」と名乗っていました。しかし、1906年のペンシルヴァニア鉄道事故広報以降は、自身を「インター・リレーションズ」(当事者間)や「ヒューマン・リレーションズ」(人事、社内)に係わる仕事をしていると紹介しています。

その後、1910年代には「インダストリー・リレーションズ」(産業)や「トレード・リレーションズ」(取引、貿易)を使用するようになり、エドワード・バーネイスが自身のことを「パブリック・リレーションズ・カウンシル」と名乗るようになってから、リーもこの肩書きを使用していました。

バーネイズは、広報エージェントの仕事に権威づけをしようと、法律家が使用していた「カウンシル」を意識して使ったといわれています。

リーは、「あなたの仕事は何か」という問いに対して、「私の仕事は、あるときはクライアントとステークホルダーとの間の通訳である」と答えています。また、知人のジャーナリストが彼の仕事は「企業の内科医」である、と紹介したことを、気に入っていたといわれています。

参考: 『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』


2017年1月9日

アイビー・リー物語(4)

コロラド炭坑ストライキ広報は一定の成功をもたらしましたが、リーにとって手痛い失敗を重ねた一面もありました。たとえば、広報誌の内容にうそが書かれており、それが労働者の怒りを買うことになったほか、メディアにプレスリリースや会社側のメッセージを大量に送りつけた結果、彼らの支持を失いかけたことがありました。

しかし、リーにとって最も成功したと言えるのは、ロックフェラー家のパブリック・リレーションズに対する考え方を、変えることができた点です。シニアは、ジュニアに当主の座を渡した後もパブリックやプレスに対して沈黙を続け、人目を避ける生活を続けていました。しかし、ジュニアが生きる1900年代は大富豪家の当主に、パブリックの前に姿を現し、自ら意見を述べることを要求しました。だから、ジュニアは「真実を話せ」というリーの助言の意味を理解し、よりオープンな姿勢で世論の前に出て、彼らに誠意を持って接し、自らの言葉で語りかけたのです「ラドローの虐殺」事件後、ジュニアの現地訪問が実現したのは、リーの成果でもありました。

リーは広報誌やポスターを作成し、パブリシティを通して労使関係の改善に一定の貢献をしたことは間違いありません。しかし、前述したように、広報誌の掲載内容に間違いが多く、組合やプレスからの反発を招いたのは、これは彼のキャリアにおける初めての大きな失敗だった。これは、『原則の宣言』に書かれた内容とほど遠いものでした。そのため、彼には多くの批判が集まったのです。

たとえば、労働争議を検証する連邦議会の公聴会に、ジュニア側の参考人として出席したリーの発言が、新聞で報道されると、詩人カール・サンドバーグ(Carl Sandburg)から「雇われたうそつき」と批判され、アプトン・シンクレアには「毒薬アイビー(Poison Ivy)」というニックネームをつけられるほどでした。このニックネームは人々の記憶に長く残り、リーは「毒薬」と呼ばれることに晩年まで悩んだといわれています。

この事例でのリーは、今までの成功から比べると拙さを感じざるを得ません。しかし、リーにとってコロラド炭坑ストライキの広報は、ペンシルヴァニア鉄道の脱線事故広報のときとは状況が異なっていました。なぜなら、コロラド炭坑の案件を引き受けた時、彼は鉄道運賃値上げキャンペーンに取り組んでいた時期であり、しかもストライキが発生して半年以上、ラドローの虐殺事件から2ヵ月後でした。

また、プレスやパブリックから見ると、リーは企業=ロックフェラー家にかなり近い立場の人物だと見られていました。リーは、広報エージェントとは「企業と世論の間の通訳者であり、両者間に双方向のコミュニケーションを作るのが仕事」だと語っていましたが、彼がコロラド炭坑ストライキで行った広報活動はそのことばと矛盾しています。

一方、「コロラド争議は、ロックフェラー家にとって、かつてない最も重要なでき事」であり、これを乗り越えたジュニアは、ストライキ収拾においてリーが実践した広報コンサルティングに感謝を述べています。また、リーは、ロックフェラー家と仕事をしたという事実に加えて、企業経営者たちから、その仕事ぶりに対する賞賛を得ました。その結果、リーは民間企業や業界団体から広報業務を数多く引き受け、またロックフェラー家専属広報エージェントになり、1920年代にかけて、アメリカで最も成功した広報エージェントとなったのです。

2017年1月4日

書評が掲載されました

出版マーケティングコンサルタントの土井英司氏が編集長を務める「ビジネスブックマラソン」1月3日号が、『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』をご紹介くださいました(紹介ページ)。

(追記)
他の媒体でもご紹介いただいています。ありがとうございます。

◆寄稿
『月刊経済広報』2017年1月号「視点・観点」(経済広報センター、P16~17)

◆書評掲載
『広報会議』2017年2月号「BOOKS」(P124)

2017年1月1日

本年もよろしくお願いします

皆さま、あけましておめでとうございます。

昨年11月に、『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』上梓に合わせて、等ブログを開設しました。仕事上の関係者からクライアント、広報業界まで、さまざまな方がお読みくださっていること、大変嬉しく思っております。

2017年は、リーに関連する投稿も続けながら、私が今、パブリック・リレーションズでもっとも関心を持っている分野「倫理(Ethics)」についても、国内外の情報を集めながら、投稿していきたいと考えています。

皆様の本年のますますのご活躍を祈るとともに、当ブログをご愛読くださるようお願い申し上げます。

2016年12月13日

書評ありがとうございます

書評「広報を始めた男」をご掲載くださいました。ありがとうございます。


2016年12月10日

アイビー・リー物語(3)

リーの広報エージェントとしての実績に注目した企業家の中に、同業他社の買収を重ねて米国内の石油販売市場をほぼ独占した、スタンダード石油の実質のオーナーだった、ジョン・D・ロックフェラーとその長男のジュニアがいました。

彼らは、石油事業で得た豊富な資金を、さまざまな分野に投資していました。その中には、コロラド州最大の石炭会社への出資が含まれます。ジョン・D・ロックフェラー(以下:シニア)は、1902年に600万ドルでコロラド燃料&鉄鋼(Colorado Fuel & Iron、以下: CF&I)社の40%の株式と43%の債権を取得し、同社の筆頭株主となりました。

CF&Iは当時コロラド州最大の炭鉱会社で、炭鉱が24ヵ所あり、州内で最も多くの従業員を抱えていました。実は、シニアが筆頭株主になる前からCF&Iは赤字であり、その後も赤字経営が続いたため、シニアは経営陣の刷新をはじめ、労働組合活動への規制を強化しました。

しかし、厳しい労働条件に反発した労働者と労働組合によるストライキが長期化し、経営難に陥っていました。また、ストライキ中の1914年4月に発砲事件(ラドローの悲劇)が起き、労働者の家族が亡くなるという悲劇もあり、最大株主であるロックフェラー家は、米国中から非難を受けました。

事件発生以降、シニアはCF&I社の筆頭株主として激しい批判や誹謗中傷にさらされたが、彼には自身の考えを説明し、反論しようとはしなかったのです。なぜなら、彼にはそのような行動をする意思(広報マインド)がなかったからでした。シニアには多くの助言が寄せられたが、それらの多くは広告宣伝に関するものばかりでした。

広告ばかり進められて途方にくれたジュニアから相談を受けた、ジャーナリストのアーサー・ブリスベン(Arthur Brisbane)が、彼にリーを広報顧問に雇うよう推薦しました。ブリスベンは、新聞記者としてリーと『ニューヨーク・サン』、『ニューヨーク・ワールド』両紙で同僚であり、リーを良く知る人物でした。

事件発生から1ヶ月が経過した1914年5月、ジュニアがリーに面談を申し込み、彼はリーに「父と私は、プレスや国民についてよく理解していない。どうすれば、私たちの立場を明確に伝えることができるだろうか」と助言を求めました。

それに対して、リーは問題解決のために「遅かれ早かれ、嘘は暴かれる。真実を述べ、自らの見解を全部率直に公表すること」と助言したのです。ジュニアは、リーのこの助言を受け入れて、事故対応の広報スタッフとして彼を迎え入れることにした。ちなみに、シニアはリーの助言を聞いたとき、「私は、初めて率直な助言を聞いた」と感謝の言葉を述べたといわれています。

リーは1914年6月から7ヵ月間にわたり、ペンシルヴァニア鉄道の運賃値上げキャンペーンに取り組みながら、多忙な時間の合間をぬってコロラド炭坑争議の広報業務に取り組むことになりました。

参考: 『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』

書評が掲載されました

日本パブリックリレーションズ協会の「協会ニュース2016年12月号」に、『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』の書評が掲載されました。

2016年12月8日

論文が公開されました

東京経済大学の『コミュニケーション科学(The Journal of Communication Studies)』第44号(11月9日発行)に掲載された論文『現代アメリカにおける広報エージェントの概念形成』が、東京経済大学学術機関リポジトリで公開されました。
これは、修士論文の一部を補筆改訂したものです。

2016年12月6日

広報PR温故知新「エンバーゴ」とは何か

企業の広報PR業務に携わっている方なら、「エンバーゴ」という用語を見たことがあると思います。外資系企業では、企業買収や合併など、大きな発表のプレスリリースに「エンバーゴ」が記載されている場合があります。

エンバーゴは元々海運業界の専門用語で、政府命令や戦争等非常事態により、貨物の種類、路線、期間などを限定して、出入港禁止措置を行なうことです。これが転じて、広報PRでは指定日時まで一定の間、情報公開(記事掲載)を禁止するという意味で用いられるようになり、企業とメディア間の紳士協定となりました。

日本では、昔は「報道解禁時刻」と表示していたようですが、今は企業の広報やPR会社から、「今日の発表内容は、xx日のx時までエンバーゴでお願いします」とか、プレスリリースに「xx日x時前の公開禁止」などと記されています。

「エンバーゴ」が、広報PRで使われ始めた時期は不明ですが、1930年代のアメリカでは既に一般的だったようです。たとえば、ロックフェラー家の広報エージェントだったアイビー・リーとニューヨークのメディアとの間では、大恐慌後の1930年に建設が始まったロックフェラー・センターに関する情報開示について、その「エンバーゴ」をめぐった対立がありました。

リーの伝記『Courtier to the Crowd』には、そのときの様子が次のように書かれています。
「新聞記者たちは、ニュースの「エンバーゴ」についてリーを批判した。記者たちが、ロックフェラー・センター建設に情報入手を試みても、リーはそのすべての依頼を断っていた。ロックフェラー・センターに関する噂はニューヨーク市中に広まっていたが、ある記者によれば、すべての交渉が終了するまで、リーは彼らが知りえた情報の記事掲載を認めず、さらにロックフェラー家からの正式コメントの提供も断っていた。」

ロックフェラー・センターは1930年に建設が始まり、すべての建設が修了したのは1939年。建設現場では、一日最大7万5千人もの労働者が働く、世紀の大プロジェクトでした。1929年に起きた大恐慌で職を失った人たちや建設業界をはじめ、アメリカ国内に復活の機会を提供したロックフェラー・センターの建設は、注目を集めていました。だから、メディアの取材合戦も相当なものだったことだろろうと思います。

リーは、メディアから激しい批判を浴びながらも、ロックフェラー家を守ることに専念し、ロックフェラー・センターの広報プロジェクトも彼の戦略どおりに行われました。建物を「ロックフェラー・センター」と命名することになったのは、ロックフェラーがリーの助言を受け入れたからだといわれています。

このように、リーはメディアからクライアントを守るバッファー役を果たしていました。広報エージェントがクライアントとメディア、及びクライアントとパブリックとの間に入るという役割は、20世紀初頭のアメリカにはなかった仕組みである。リーは現代では一般的となっている、広報エージェントによるコミュニケーション・スタイルの確立に貢献したと評価されています。

企業とメディア間の紳士協定は重要です。しかし、リークやオフレコが情報源となって、新製品情報もその発売前からネット上に公開されてしまう現代では、「エンバーゴ」とは何かを、改めて考える必要があると思います。以上、広報PR用語としての「エンバーゴ」の由来について書いてみました。


広報マーケティング Advent Calendar 2016に参加しています。


参考文献

  • Ray E. Hiebert, Courtier to The Crowd; The Story of Ivy Lee and the Development of Public Relations, (Iowa State University Press, 1966 未訳)
  • ロン・チャーナウ/井上廣美訳『タイタン ロックフェラー帝国を創った男(上)(下)』(日経BP社、2000)
  • 河西仁『アイビー・リー 世界初の広報・PR』(同友館、2016)
地図: Googleマップ「ロックフェラー・センター」




2016年12月1日

出版記念セミナーを開催しました

都内で出版記念セミナーを開催しました。ご参加くださった皆さま、ありがとうございました。

今回は、広報PRに携わるプロの方々が中心だったので、専門用語の説明などそれほど必要としないで、集中して話すことができました。

今後も、セミナーや研究会・勉強会を開催していきたいと考えています。

2016年11月28日

書評が掲載されました

広報学会の理事も務めている、PR会社「ビーコミ」代表の加藤恭子さんが、ご自身のプログ「きょこ コーリング」で、書評をご掲載くださいました。ありがとうございます。


2016年11月25日

広報学会Facebookで、紹介されました。

広報学会のFacebookで、拙著が紹介されました。こうしてご紹介いただけるのは、大変うれしいことです。

ちなみに、引用された記事は、東京経済大学の広報から取材を受けたものです。
卒業後、ひさしぶりに訪れた大学は、懐かしかったです。

2016年11月21日

広報エージェントの前職は新聞記者やジャーナリストが多い

アップル社が中国での広報業務を強化するために、ウォールストリート・ジャーナル紙の元コラムニストを採用しました。

Apple、WSJの女性ジャーナリストを中国の広報責任者として引き抜き

アメリカでは、エドワード・バーネイルズといった現代パブリック・リレーションズの父と称される先駆者たちが、第一次世界大戦終了後、パブリック・リレーションズに関する講義を大学で始めました。これは、PRを専門職業として認知させるの人材育成の始まりでもありました。

その後、企業や行政機関のパブリック・リレーションズに対する需要が高まったことから、大学にパブリック・リレーションズの学部や学科が開設され、大学で専攻した学生たちがPRエージェンシーや企業の広報部門で働くようになりました。

一方、新聞記者に代表されるジャーナリストから、PRエージェントに転身する事例も多く見られました。これは、企業にとって、ニュースを書くという専門知識や経験を有する新聞記者たちは、即戦力だったわけです。この傾向は、マスメディアへの露出が広報PRにとって最大の価値を示していた1980年代初めまで続きました。

しかし、1990年代のインターネットの登場によって、企業にとメディアとの関係が代わり始めたことから、広報担当=元ジャーナリストという図式は、以前より少なくなったと思います。

2016年11月20日

「出版記念セミナー」申込受付終了しました。

12月1日(木)に開催する「出版記念セミナー」の申込を終了しました。お申込・お問合せくださった皆さま、ありがとうございました。

キャンセルが出た場合は、改めてご案内します。